21世紀のすでに起こった未来

1988年当時、私は小学5年生だった。この頃、日本はバブルに沸き立っており、あらゆる所で土地開発が行われていた。私の住んでいた北海道の片田舎でも同様だった。海辺の小さな観光地でしかないこの町に飛行場建設の投資話が持ち上がっていた。当時、町会議員であった父が、飛行場建設によって観光客がさらに増加するであろうと期待を寄せていた。

 

しかし、私は違っていた。むしろ、日本のバブルの破綻が近いことを予期していた。海辺のキャンプ場以外、何も特色のない田舎町に交通網を増やしても体験の魅力が増えるわけではない。体験の魅力が少ない観光地など、誰も見向きをしないからである。飛行場建設が将来、田舎町の財政を圧迫するであろうことは、小学5年生の子供でもわかることであった。

 

ところが、当時このようなことはあらゆる地域にとって当たり前の事だった。実態とかけ離れた上り調子の経済に誰もが感覚を失っていた。バラ色の明日に誰もが「栄光の日は現れたり」となっていた。

 

そして3年後、経済破綻は起きた。子供だった私にはなすすべがなかった。

 

同様なことは1929年にもあった。当時、誰もが方向感覚を失っていた。ウォール街の靴磨きの少年までもが株式投資をしていた。ジョセフ・P・ケネディのように事前に株式市場の危機を予期し、大恐慌を切り抜けた者がいたが、大半の者は財産を失った。

 

 しかし同時に1920年代は大量消費社会の幕開けでもあった。アメリカでは第一次大戦の復員兵を吸収して大量生産が始まった。その大量生産はアメリカで消費され、瞬く間にアメリカを世界最強の国家へと押し上げた。

 

しかも、この現象は太平洋を越えて日本まで渡った。日本では1960年代から経済破綻した1990年代の30年間続いた。

 

2015年現在、今の社会を大量消費社会と呼ぶ者はいない。インターネットと人口構造の変化が社会構造を変えてしまった。家族は解体され、企業の終身雇用が破綻し、従来の国家政策のほとんどが機能しなくなっている。

 

恐らくこの傾向は私が呼ぶ2つの経済爆弾「日本国債バブル」と「中国不動産バブル」が破綻する日まで続くだろう。

 

しかし同時に新たな社会構造も生まれ始めている。多層化コミュニティによる企業家社会である。

 

Ecolosical Visions labではP・F・ドラッカー「すでに起こった未来」になぞらえて、次に起こる社会変化とその対処について考察をしていきたいと思う。