最も優秀な者は他の場所にいる

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 引用:日本大学生物資源科学部 森林資源科学科

 

 

乱気流の時代である今、世界で競争力を持つには、「才能」「情報」「技術」を自らの所属組織の外に求めなければならない。

Sun Microsystems共同創業者ビル・ジョイ氏が述べるように、「最も優秀な者は他の場所にいる」からだ。 IT革命によって私たちは、外との関係を簡単に作れるようになった。 それも世界中の者と繋がれるようになった。

この時代においては、競争力は「組織力」にあるのではない。ネットワーク力にある。効率化を追求してライバルを打ち負かすのではなく、世界中の者と友人となることで初めて大きな影響力を持つことができる。

 

イノベーションはコンビネーション

外にいる優秀な者と繋がったところで、「自らの意思に基づいた価値」を構築しなければ何も得られない。

新しい価値は外の優秀な者が持ってくるわけではない。

寛大な心を持ち、好奇心を抱きながら他者と協力することで自らの「価値」と他社の「価値」を融合させ、新しい価値を構築することができるのだ。

ジョセフ・シュンペーターが述べるイノベーションは自らの価値と他者の持つ価値を合わせ、「新結合」となることで初めて実現が可能になる。

まさに「イノベーションはコンビネーション」である。

 

◆喧嘩腰の「新結合」は受け入れられない

2011年に起きたアメリカのウォール街の抗議運動「We are the 99%」をご存じだろうか?

経済界、政界を批判する者が自らの貧困の惨状を訴え、状況改善を要求するために起こした運動だ。彼らは世界82ヶ国、1,000の都市で抗議をしたにも関わらず、わずか数か月で沈静化することになった。

デモの参加者は失業率や年金問題地球温暖化への批判など多くの者が加わっていった。彼らは既存の集団へ喧嘩腰で向かっていったが、他の誰からも受け入れられることはなかった。

 

◆貢献こそが鍵

既存に対して不満があるならば、我々はいかにすべきか?このことについて、ビル・ジョイは我々にもう一つの提案をしている。

「ゲームに勝つ確実な方法がある。それは、自分のルールでゲームをすることだ」

社会の"ルール"を支配しているのは、いつの時代も権力者である。そういう意味で「We are the 99%」として改善要求をした者は間違っていなかった。

しかし、2010年の「アラブの春」の結果が示すように、既存の権力を破壊した後は別の権力が居座るだけである。その結果、以前よりさらに悪い状況を社会に引き起こすことになってしまうのだ。

社会を良くしたいならば、既存への喧嘩腰をやめて活動しなければならない。それには世界中の友人へ「貢献」する立場となることで初めて可能になるのだ。

新しい知識労働者のマネジメント

マネジメントにとって事業の取り巻く環境が年を追う毎に早くなっている。
今日の事業は陳腐化する。それ故に明日のためのイノベーションをしなければならない。さもなくば、生き残ることは困難である。

イノベーションを起こすには、今の新しい現実を観察し、明日への機会を自ら作り出さなければならない。
しかし、多くの企業が昨日のためのマネジメントを行なっている。

既に多くの企業が中央集権型マネジメントが
変化への対応が乏しく、時代に合わなくなっていることを知っている。
しかし、解決となるはずの権限移譲型マネジメントですら、既に陳腐化し、時代に合わなくなっている。

中央集権型、権限移譲型のいずれもマネジメントは予測によって計画し、正しい発想か前もって検証を行なっている。
しかし、事前に全てを計画し、完璧に準備することは、無駄とはいかずとも有益ではないことが明らかになりつつある。

インターネットを介してあらゆる知識が流通し、政府や大組織すら不可能だったことを素人が実現するようになった。
この結果、従来から大組織が進めてきたイノベーションが一夜にして無価値となっている。

一方で素人のイノベーションは単純である。
想いによって方向付けし、予め計画せず短期間で絶えず改良しつつ実現している。
しかも、この「新たな知識労働者」は周囲にある課題に焦点を当て、他者と共に自ら学び続ける者である。

その意欲の強さのために従来の知識労働者を遥かに凌駕した学習能力を持つ。

この新たな知識労働者と新しい関係を作り、強化していくことがマネジメントの今日的な課題である。

隠れた真実をいかに実現するか

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誰も気付いていない隠れた真実を探し出すこと。

それによって偉大な企業を作ることができる。


ピーターティールの格言だ。


確かに、隠れた真実はありきたりの常識に囚われる多くの者と一線を画し、それを手にした者に偉大な力を与える。


グーグルやフェイスブックもそれに気付いていなければ今日の繁栄はなかったはずだ。


しかし、このことに忠実に従うならば、起業は宝探しとなる。宝探しとしての起業は、ドットコムバブルの起業家達が既に行ってしまった。


彼らは「世界を変える」を合い言葉に株価を手にお祭騒ぎをし、一夜にして破綻の道を突き進んだ。彼らのほとんどは社会の動向を無視してしまっていたのだ。


社会から見たら彼らの行動は滑稽そのものだ。個々人が協同し、皆でより良くするために活動しているにもかかわらず、彼らのようなニヒリズムじみた思想を持つ「超人」達が我先へと争いを作り出していたからだ。


企業の持つ価値など、社会から見たら大海の一滴である。隠れた真実を探し出したとしても、それが永遠の価値を持つわけでもない。


隠れた真実は偉大な力を与える。しかし、それを目的化してはならない。

従って、ピーターティールの格言は修正すべきだ。


大事なことは「隠れた真実をいかに実現するか」だ。

原宿はもうファッションの街ではない

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最近、原宿へ出かける用事があり、街を探索してみると驚いたことがある。原宿の街がスポーツアパレル店に変貌していたことだ。

原宿は日本の高度経済成長の象徴だった。1960年代の急成長によって日本のファッションが欧米化した。

日本の欧米化したファッションセンスは、原宿の若者から日本中に発信され、日本のみならず世界中にまで行き渡ることとなった。

ところが、今はそれがないのである。

原宿の街はスポーツアパレル店とGAPなどのブランド物の店しかなくなった。

原宿の街が変貌した原因として、一部の識者がSNSよるオンラインでのコミュニケーションの普及を挙げているが、それは間違いである。

SNSが普及するだけなら原宿がスポーツアパレル店ばかりになった理由を説明出来ない。

調べてみると日本の構造上の問題が透けて見えてきた。

日本のアパレル業界を見ると2009年の世界同時多発不況時に廃業率が最も高くなっている。また、同時期にGAPが原宿に参入している。GAPはユニクロと同様、安い製品を一律に提供し、消費者を惹きつけてきた。

さらにスポーツアパレル業界として見ると2012年まで5000億円を下回っていたはずが、2013年より急激に5000億円を上回っている。この年は東京オリンピック開催が決定された年だ。

日本の20代の若者はバブル期まで服というコンテンツを通した創造力でアパレル業界の成長を促していた。

それが、一律スポーツ店となり、どこの店も同じ様なものを扱っているのだ。しかも、通りを歩く人は無彩色が多い、地味な格好をしている。

これは、日本人の創造力が急速に衰えてきていることを意味している。

自らの内発的な発想に基づく発想より、外部の要求を重視しているのだ。それが、「服」を通した発想力から「東京オリンピック」という社会観を重視した格好だ。

でももしかしたら、東京オリンピックによる一時的な社会現象だという見方もあるかもしれない。

しかし、それも間違いである。

日本人は平均給与と年金支給の減少により、服にお金を出す贅沢をする余裕もなくなってきた。

それが結果的にアパレル業界の低迷を招き、スポーツ店だらけの街にしてしまったのだ。

原宿の変貌は沈みゆく日本の状態を映し出しているのだ。

21世紀のすでに起こった未来

1988年当時、私は小学5年生だった。この頃、日本はバブルに沸き立っており、あらゆる所で土地開発が行われていた。私の住んでいた北海道の片田舎でも同様だった。海辺の小さな観光地でしかないこの町に飛行場建設の投資話が持ち上がっていた。当時、町会議員であった父が、飛行場建設によって観光客がさらに増加するであろうと期待を寄せていた。

 

しかし、私は違っていた。むしろ、日本のバブルの破綻が近いことを予期していた。海辺のキャンプ場以外、何も特色のない田舎町に交通網を増やしても体験の魅力が増えるわけではない。体験の魅力が少ない観光地など、誰も見向きをしないからである。飛行場建設が将来、田舎町の財政を圧迫するであろうことは、小学5年生の子供でもわかることであった。

 

ところが、当時このようなことはあらゆる地域にとって当たり前の事だった。実態とかけ離れた上り調子の経済に誰もが感覚を失っていた。バラ色の明日に誰もが「栄光の日は現れたり」となっていた。

 

そして3年後、経済破綻は起きた。子供だった私にはなすすべがなかった。

 

同様なことは1929年にもあった。当時、誰もが方向感覚を失っていた。ウォール街の靴磨きの少年までもが株式投資をしていた。ジョセフ・P・ケネディのように事前に株式市場の危機を予期し、大恐慌を切り抜けた者がいたが、大半の者は財産を失った。

 

 しかし同時に1920年代は大量消費社会の幕開けでもあった。アメリカでは第一次大戦の復員兵を吸収して大量生産が始まった。その大量生産はアメリカで消費され、瞬く間にアメリカを世界最強の国家へと押し上げた。

 

しかも、この現象は太平洋を越えて日本まで渡った。日本では1960年代から経済破綻した1990年代の30年間続いた。

 

2015年現在、今の社会を大量消費社会と呼ぶ者はいない。インターネットと人口構造の変化が社会構造を変えてしまった。家族は解体され、企業の終身雇用が破綻し、従来の国家政策のほとんどが機能しなくなっている。

 

恐らくこの傾向は私が呼ぶ2つの経済爆弾「日本国債バブル」と「中国不動産バブル」が破綻する日まで続くだろう。

 

しかし同時に新たな社会構造も生まれ始めている。多層化コミュニティによる企業家社会である。

 

Ecolosical Visions labではP・F・ドラッカー「すでに起こった未来」になぞらえて、次に起こる社会変化とその対処について考察をしていきたいと思う。